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介護保険制度なんかいらない~本質から展望までを完全網羅~

【実録】介護の本質
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今回の【実録】介護の本質chからお送りするのは

介護保険制度なんかいらない

内容的には、以下の通りに進めていくことになっています。

  1.  本質:この国は、制度を始めた時から高齢者を見捨てている
  2.  背景①:高齢者の弱みに関する問題
  3.  背景②:家族・血縁関係に関する問題
  4.  背景③:制度をスタートさせた行政の本音
  5. 【総括】:介護保険制度なんかいらない
  6.  展望:介護保険なき後は、こどもほけん制度!?​

介護保険制度20年以上のあゆみの中で、私が抱いていた懸念が現実化して来ています。

その懸念とは、介護保険制度の本質の部分から生じているものなんです。

そしてその本質からつながる背景には、ずっと以前から存在した様々な問題が複雑に絡み合い、スタートから20年以上経過した今日において如実に表れています…

この記事を読めば、介護保険制度開始以前からの流れや制度の本質、背景などが分かり、その総括の意味することや、今後の展望などについてを完全網羅することができますのでどうぞ最後までご覧ください。

それでは、始めて行きましょう!


本質:この国は、制度を始めた時から高齢者を見捨てている

介護保険制度が始まったのは、平成12年4月1日からです。

​​基本理念は​「高齢者の自立支援」。​​​

平たく言うと

おじいちゃんおばあちゃんが

自分で自分のことができるようになるためにお手伝いをする

当時の日本は「高齢化社会から超高齢化社会への移行期」といっても過言ではなかったですよね。

増え続ける高齢者の身体が言うことを利かなくなってきた時の

いわゆるセーフティーネットのようなものが必要。 との考えがあったようです。

国家財政からすれば本格的なデフレが進行中であり

景気のいい話が聞こえてこない中、消費も需要も冷え込む有様。

税収も多くは見込めない。

国債を発行するにしても国民に「国債を発行すると一人当たりの借金が増える」といっている以上、思うように発行できない。

そんな中で出てきたのが、これ。

これからみんな歳を取るんだから

みんなで少しずつお金を出し合って

おじいちゃんおばあちゃんを支えて行きましょう。

そうすることで、自分が歳を取った時にも、不安なく余生を過ごせますよ。

って考え方。

スタート当初の制度の内容を簡単に記すと、こうなります。

  • 65歳の誕生日に行政から送付される介護保険被保険者証を受取ったら「準備段階」
  • 介護保険サービスを利用する場合、要介護認定調査を申請し、認定調査を受ける
  • 要介護認定が下りたら、その要介護度に応じ、限度額の範囲内で希望するサービスを受けられる
  • その費用は、利用者は1割でよい(例:1,000円のサービスならば100円
  • 制度開始より、従来の「措置」から「契約」へと移行するので、今までよりも利用者のニーズに合った所からのサービス提供が受けられる

 何とも聞こえの良いフレーズが並んでいますよね。

『そうか。これからのことをしっかりと見据えた制度なら安心できるなぁ』
少しのお金で将来を不安なく過ごせるなんて、何とも有難いなぁ』
少ない年金からでも助けてもらえることが多くあるのは素晴らしいなぁ』など。

ここだけ聞けば

夢のような制度

未来が明るくなる制度 って感じでしょうね。

果たしてそうでしょうか。

「高齢者の自立支援」を旗頭にしている介護保険制度は

3年に1度のペースで法改正を行っています。

その内容を簡単に押さえておくと、こうなります。

  • 平成15年より介護報酬の見直しがスタート(以降、毎回行われています)
  • 平成18年より介護予防事業、地域密着型サービスがスタート
  • 平成21年より退院・退所加算やサービス開始の際の「初回加算」が新設
  • 平成24年には要介護認定調査マニュアルの改訂要介護認定がより厳格化
  • 平成27年より地域支援・総合事業の開始
  • 平成30年には地域包括ケアシステムの構築へ向けた取り組みの開始
  • 令和 3年には感染症や災害への対応力強化地域包括ケアシステムの推進自立支援・重度化防止介護人材の確保・介護現場の革新制度の安定化・持続可能性の確保5本柱にて運営を強化

ここまで、OKですか?

あまり詳しく書いちゃうと、読んでいて疲れてしまうでしょう?

私も疲れます( ´∀` )

ですので、このくらいに。

法改正の内容は、確かに「高齢者の自立支援」からは外れていないように見えます。

開始当初から変化した内容は「介護報酬」「利用者負担の割合」(1割~3割)

軽微なものかとお考えになる人。気が早いです。

​​外れていないことの方が問題​なんです。​

私が「高齢者を見捨てている」と言った根本の要因はこれ。

制度開始より、従来の「措置(そち)」から「契約」へと移行する。

介護保険制度が始まる前は、高齢者が施設入所や介護・福祉サービスを利用したい場合、市区町村の窓口や福祉事務所へ相談して、紹介や斡旋を受けて入所や利用を行う「措置(そち)」制度でした。

「施設に入りたい人紹介しますから、そちらへ入所(そちらを利用)してください」って言うことです。

介護保険制度が始まると、高齢者が施設入所や介護・福祉サービスを利用したい場合は、ケアマネージャー仲介人として、高齢者や家族が希望する施設や事業所と直接話をして、入所やサービス利用を行って行う「契約」制度に移行しています。

「施設に入りたい人希望するところと契約して、入所(利用)してください」って言うことです。

大きく違う点は「措置から契約へ」と言う単純なものではなく

施設やサービスを利用するにあたっては、行政が負う責任はない。​ということです。​

そりゃそうですよね。

高齢者が入所(利用)する施設や事業所を決定する段階では、行政は関わっていないんですから。

施設や事業所が、高齢者に対してきちんとしたサービスを提供しているかについては

  • 書類が整っていれば、それで良い
  • おかしなお金の流れさえなければ、しっかりとした運営が行われている

という風に判断されてしまいます。

高齢者の自立支援を旗頭にしている割には、高齢者がこれからの余生をどのように過ごして行くのかの大きな選択をする場において、「委託」という名の下に民間が運営する施設や事業所などへ丸投げしている。

自分の生活や権利を最低限度保障してくれるはずの行政が

これからの人生の大きな選択を行う場面にいない。

ある意味、梯子を外されるといった感じですよね。​

「間違った選択であったとしても、下支えを行政がしてくれる」という確かなものがあれば、その選択を正しい物へと替えられますが、介護保険制度では下支えの初期段階で梯子を外されている。 

これが「本質」です。

次の章からは、その背景となる3つの問題についてお伝えします。

どうぞご覧ください。


介護保険制度なんかいらない背景①:高齢者の弱みに関する問題

​まずは1つ目「高齢者の弱みに関する問題」についてお伝えします。​

介護保険制度スタートから、この国は高齢者を見捨てている。

これが、私が考える「本質」であると、前章でお話しました。

 ​

では、なぜこのようなことを考えるようになったのか。

​一つには、高齢者が持ち合わせているある弱みが背景としてあるからです。

​その「弱み」とは何なのか。​

高齢者(平たくいえば、お年寄り)のイメージは人それぞれだとは思うんですが

まず手始めに高齢者の強みと弱みについて触れて行きますね。

皆さんは、どんなイメージをお持ちでしょうか。

私が考える、高齢者の強みと弱みとはこんな感じです。

高齢者の強み

  • 人生経験が長いので、知恵袋的なことを多く知っている
  • ちょっとやそっとじゃ風邪を引かない
  • 存在自体に安心感がある
  • 『自分がやってきた』という自信があり、お金もある程度の蓄えがある。
  • 安定を求める
  • 良い意味での「利己主義」(自分をしっかりと持っている)

逆に、高齢者の弱みとは

  • 新しいことに鈍感で、難しいことは分からない
  • 衰えが進み、病気がちで、身体がついて行かない
  • ともすれば、疎ましがられる存在であり、孤独である
  • 困っていても、誰かに迷惑をかけたくないし、お金は極力使いたくない
  • 変化を嫌う
  • 国か決めたことについては「従順」

皆さんも概ね、このようなイメージなのではないでしょうか。

強みと弱みは「表裏一体」になっていて、絶妙なバランスが取れていれば何も問題はないんですが、介護保険制度がスタートしてからは、この関係性はある部分が高齢者の弱みを爆発的に拡大させたことで極めて歪な形になり、強みとなるものまでもを蝕んでいます。

どの部分が?

​​利己主義従順​です。

高齢者のバックボーンになっているものは

「第二次世界大戦後の復興」「高度経済成長」「オリンピック」「万国博覧会」などに代表される事柄から、今ある繁栄は私たちが頑張ってきたことを、国が支えてくれたからだ

という思い。

これは、言い換えれば

『私たちの頑張りを、国はちゃんと見てくれていたからこそ今の繁栄がある』

『国が行う施策は、私たちの未来を明るくするものに違いないし、疑う余地もない』

​との観点から

『国は、私たちを裏切ることはない』との思い(利己主義)になると、私は考えます。​

​​その思いの下、国がどんな施策を打ち出したとしても

『それは、必ず私たちに明るい未来を与えてくれるもの』として考えられ

『国が言うことに従うことが、私たちに幸せをもたらす』(従順)​​との考え方へと膨らんで行ったと私は考えます。​​

そして、介護保険制度がスタート。

聴こえの良いフレーズを並べ、あたかも『高齢者の皆さんの生活をしっかりと支えますよ』と言う旗頭で『難しいことは分からない』という高齢者の弱みに付け込んだ挙句、肝心の部分で梯子を外した結果、利己主義は単なる『チープなプライド』へと変化し、従順は『諦め』へと変化して行っている。

​例えたら、​国が高齢者に対して長い歳月をかけて行ったオレオレ詐欺​といっても過言ではないと私は考えます。​

この章でのまとめをしておきます。

「高齢者の弱み」とは、利己主義と従順である。とお伝えしました。​

『国は、私たちを裏切ることはない』と言う利己主義と『国の言うことに従うことこそが、私たちに幸せをもたらす』と言う従順とが、高齢者の弱みの部分を爆発的に拡大させ、関係性を歪め、強みとなるものまでもを蝕んでいる。

長い歳月をかけたオレオレ詐欺として、現在もなお、背景としてのさばっている。

という内容でした。

次の章では、2つ目の背景についてお伝えしますので、どうぞご覧ください。


介護保険制度なんかいらない背景②:家族・血縁関係に関する問題

2つ目の背景として「家族・血縁関係に関する問題」についてお伝えします。

介護保険制度が始まる前からこの問題については存在していましたし

現在はさらに悪化していると、私は考えます。

高齢者を取り巻く環境において、最も密接な関わりとなる家族や血縁関係の方々の間で今、何が起こっているのか。

私の見解をお伝えしますので、どうぞご覧ください。

介護保険制度が始まる前、平成12年よりも前の日本。

奇しくも「20世紀」でしたが、20世紀において、というか

戦後復興期を経た昭和の時代の高齢者を含めた家族構成を

分かりやすく例えると「サザエさん一家」のようなものです。

一つ屋根の下で、お爺さん、お婆さん、お父さん、お母さん

子どもたち、お孫さんといった家族が暮らしている。

食事の時には家族一同が食卓を囲み、一日の出来事を時には笑顔で

時には真面目な顔で会話しながら過ごしている。

親戚縁者も度々訪れ、孫の成長を喜びながら、互いの健康を気にかけている。

こんな感じでしょうか。

しかしながら、20世紀の後半から終わり

昭和から平成へと時代が変わって行く時に何が起きてきたか。​3つあります。​

  1. 出生率の低下
  2. 核家族化の進行
  3. 死別などによる親戚縁者との疎遠 ​です。​​

1つずつ解説していきますね。

出生率の低下

​ まず、出生率の低下についてですが、こちらをご覧ください。​

引用出典-https://www.nishinippon.co.jp/image/327999/

これは、厚生労働省が発表している「人口動態統計」のグラフです。

人口動態統計というのは、日本の人口動向を把握するためのものなんですが

グラフの内容をよ~く見てください。

まぁよく見なくても一目瞭然ですけど、どんどん下がっていますね。

最新のデータでは、昨年産まれた赤ちゃんの数は約80万人ですから

出生率の低下は計らずもがな。

少子化がさらに加速していると考えて差し支えないと思います。

もう1つ、資料をご覧ください。

引用出典-ReseMom

これも、厚生労働省がまとめた「人口動態総覧」というものです。

​様々な数値が並んでいるんですけど、皆さんの目に留めておいてもらいたいのが「死産数」です。​

自然・人工・周産期とありますが、周産期は総数には含まれていません。

何故なのかは別の回でお話しますが、この命は、本来産まれて来るべくして育まれてきたもの。

理由として掲げられるものは、母体となる女性の身体の脆弱さ男性の理解度の低さ

言い方は悪いですが

「いいやん、いいやん。ちゃんと避妊してるし、大丈夫やから」

といった生半可な覚悟による顛末などがありますが、いずれにせよ

  • 次世代を担う子どもの減少
  • 成長し、社会の最前線で活躍する若者の「結婚離れ」
  • 愛し合い、求め合っていても、望めない環境が目の前に広がっている

こういったことが、より拍車をかけていると、私は考えます。

核家族化の進行

​2つ目の「​核家族化の進行」についてですが、

この要因は2つあって、仕事の都市部集中嫁姑問題が挙げられます。

経済が発展して行く中で、企業においては多角的な考え方の下、幅広い分野での参入を行って行くようになり、それに伴い、働き方についても選択の幅を広げることができるようになって行きましたが、ネックになったのが「仕事の都市部集中」。

第一次産業、第二次産業の分野では、生産はするけど、利潤が生み出されなければ話にならない。

戦後において飛躍的に発展した第三次産業により、強固な回転力が生み出されたことによって経済は上昇気流に乗り、繁栄を受ける形になると『地元で就職して住み慣れた町で』の思いとは裏腹に、企業において決まって発生するのが「支社への(本社への)栄転・配置転換」

生活形態の変化を余儀なくされ、実家から通勤するにも不便な状況となり、社会問題ともなった『嫁姑問題』が、変な形でその状況を後押しする形になり、親元を離れ、どんどん都市部やその近郊に居を構える人々が増えていきました…

引用出典-厚生労働省「国民生活基礎調査」

このグラフを見ていただくと、時代背景とリンクする部分が多いのではないでしょうか。

「夫婦・子どもたち」「夫婦のみ」の世帯が増え

家族を構成する中に「おじいちゃん・おばあちゃん」の存在が薄れていく。

そうなると、子どもたちが高齢者と接する機会が減り、その影響力も弱まるので、子どもたちからすれば『たまに会うと、お小遣いやおもちゃをくれる人たち』との認識になってしまっていく。

「スープの冷めない距離」が

いつしか「スープが冷め切って、凍るかもしれない距離」になってしまっている。

と、私は考えます。​

死別などによる親戚縁者との疎遠

​3つ目の「死別などによる親戚縁者との疎遠」についてお伝えします。

毎年お盆やお正月に、親戚のおじさんやおばさん

いとこの子たちが家に来て食事を一緒にしたりゲームで遊ぶなどの想い出が

あなたにもあるでしょう。

おじさんというのは、父方からは「伯父」母方からは「叔父」。

おばさんというのは、父方からは「伯母」母方からは「叔母」。

いわゆる、自分の両親の兄弟姉妹の人たちのことですね。

「いとこ」とは、その子どもたちのこと。

親戚縁者の多いところは、こう言った時には賑やかで

近い世代のいとこが多ければ、学校での話や好きなアイドルの話などで盛り上がり

それなりに楽しいものですよね。

しかしながらこの人たちも年齢を重ねてくると、一人暮らしを始めたり結婚して別の世帯を築いたり、海外で暮らすようになったり死別したりなどがあり、増減を繰り返して行く訳なんですが、どちらになっても血縁関係的には「血が薄く」なります

そうなって来ると、体調面や移動距離などの関係で

次第にお盆やお正月に集まる人数は減ってきますし

お世話になっていた人がいなくなってしまうと関係性も弱まりますよね…

『あなたが小さい頃にお世話になってた親戚の叔父さんが』

『面倒見てくれた伯母さんが』

親からの電話でいわれても

実際にどれだけお世話になっていたとしても

喫緊の法事以外は親戚縁者とも顔を合わせることは次第に少なくなっていきます。

このようなことから『私らも歳を取ってしまったから、そっちはそっちで』という考え方になり、必要とする時に話ができる人がいない。 と言う状況が生まれてしまう…​

これもまた、背景として考えられることではないかと私は考えます。

この章でのまとめです。

「家族・血縁関係に関する問題」とは

​​​

  1. 出生率の低下
  2. 核家族化の進行
  3. 死別などによる親戚縁者との疎遠

​​​

​1については、次世代を担う若者の結婚離れに伴う子どもの減少

結婚したとしても、愛し合い、求め合っても

社会情勢を見れば、『望めない』現状が目の前に広がっている。

については、「仕事の都市部集中」と「嫁姑問題」が要因だとお伝えしました。

​家族を構成する中での高齢者の存在が薄れ、高齢者と孫との関係性にも大きな影響が及び

「スープの冷めない距離」が

「スープが冷め切って、凍っちゃうかもしれない距離」にまでなってしまっている。

については、年齢を経ることにより、生活環境や社会環境の変化、移動距離などの問題によって

親戚縁者がそれぞれの世帯構成の中で過ごして行くようになることで次第に疎遠になって行き

関係性も薄れ、必要とする時に話ができる人がいない

といった現状が生まれていることが背景として考えられるとお伝えしました。


介護保険制度なんかいらない③:制度をスタートさせた行政の本音

この章では、3つ目の「行政の本音」についてお伝えします。

今までの背景は「制度を利用する側からの視点」での背景についてでしたが

今回は「制度を利用してもらう側からの視点」になります。

行政の考え方からすれば、いつの時代も「できるだけ支出を抑えたい」という部分が多いですが、昭和、平成、令和と時代が変化するにつれ、その考え方が「露骨」であることに問題があると私は考えます。

​今回の背景を含めた総括として「介護保険制度なんかいらない」とした

私の真意についてもお伝えしますので、どうぞ最後までお付き合いください。​

背景にある行政の本音とは、ズバリ

金(税金や保険料)さえ入れば用はナシ。

後のことはご勝手に​ です。​

分かりやすくお話していきますね。

介護保険制度を始めるにあたり、行政は「財源をどのように確保するか」を考えたはず。

自分の懐を痛めることなく、国民からお金を吸い上げて賄おうって考えだったんでしょう。

そう考えた時、新たに税制を創ることには国民が納得しない。

消費税も上げたことだし・・・。ん?消費税?

(ここからは、私の推察ですが、概ね外れてはいないと思います)

そうだ!

消費税を導入する時に「少しずつみんなで公平にお金を負担し合って、安心して暮らせる社会を創ろう!」旨のことを言ってたなぁ。だいぶと反対されたけど、ごり押しで通したら、今は習慣化しているようだし。この文言を使って…

でも、また税金となると、今度は思うようにはいかないだろう。

高齢化の世の中だし、税負担と言ってしまうと反発が…

そうか!

高齢化するから、支え合うために財源が必要って言えばいいんだ。

  • 税金と言わず「保険料」
  • 認定を受ければすぐに使える「手軽さ」
  • 普及させれば「習慣化」するはず
  • だから、どんどん認定を受けさせて、サービス利用をしてもらおう。 責任の所在は、今度新設する「ケアマネージャー」にしておいて 事が起これば、責任はそいつらに負わせればいい。 介護度が大きくなれば負担が増えるように見せておけば 要介護状態にならないようにと、国民にも言いやすいし。

    といった感じでしょうか。

    ​介護保険制度がスタートしてからの行政は「企業化」しています。​

    言い換えれば一般の会社みたいになっていると言うこと。

    しかもそれは「絶対経営破綻しない会社」であると言うことにもなると考えます。

    ​細かくお話すると、私がいう「行政の企業化」とは

    • 入るを増やして、出るを減らす
    • 担当部署の細分化による、責任の所在の曖昧さ
    • 「稼いだお金は、自分たちのもの」との考え方
    • 統治しているではなく、経営しているとの考え方
    • 生産性を物差しとした、人の優劣の判断 

    などが掲げられます。

    人件費の削減や人材登用の仕方、景気高揚なくして所得アップなしとの考え方など、

    これらすべての面で行政は「企業化」していると考えます。

    これを介護保険において考えてみるとどうなるか。

    以前に「消費税率を上げる目的は、社会保障の充実と安定化」と述べられていました。

    社会保障の充実と安定化をうたうのであれば

    行政が為すべきことは「国民がどのような状況になっても必ず手を差し伸べ、支える」ということ。

    「だから財源が必要なんじゃないの?」という人、まだ早いです。

    確かに財源(お金)は必要でしょうが

    私がいうのは「お金が必要になる前」の話です。

    高齢者にとっても、私たちにとっても、何が将来的に不安なのか。

    「私が、私として生きて行くための安心や安全が担保されているのか」だと私は考えます。

    生きて行く上で生じる様々な問題。

    それは生活困窮や不慮の事故、入退院を繰り返すことによる心と身体の状態など。

    そう言った様々な場面において、「どんなことがあっても、最後の砦として行政がしっかりとしたフティーネットを張り巡らしてくれているから安心して生きていける」というものが、不安を払拭してくれるのではないでしょうか。

    そのセーフティーネットは、編み目のでっかい「ザル」ではなくて、細かく編み込まれた網が少し間隔をずらす形で幾重にも張り巡らされているものでなければいけない。

    例えば、5000万の世帯があれば、その生活状況は5000万通りあり、1億人いれば、1億通りの生き方があるわけで、似通ったケースを合わせるにしても、数千万・数百万通りの生活状況や生き方があるわけですよね。

    ​こういった事案や事例をふまえ、個々の生活状況や生き方に応じた施策を検討し、整備し、法案化し、制度化して行くことが行政の役割だと私は考えます。

    しかしながら​そんなことはお構いなしに、私利私欲に走る輩が声高に「社会保障の充実」を旗頭に、保険料や負担率を増やし、介護に携わる人々などへの報酬は削りまくって、その分を自分たちの利権などのために、あちらこちらに「袖の下」

    これが実情ではないでしょうか。


    ​【総括】介護保険制度なんかいらない

    介護保険制度の基本理念は「高齢者の自立支援」だとお話しました。

    これって言い換えると「自立することを望まない人々は、その範疇はんちゅうから外れる」

    つまりは​「自立することを望まない人々は、介護保険制度は利用できない」​

    「自立とは、自己実現力である」ともお話しましたね。

    この考え方で行けば、自己実現力の乏しい人々がその対象となります。

    介護保険制度の範疇から外れる「自立することを望まない」人々。

    この言葉を額面通りに受け止めてしまうことに、ものすごい違和感を覚えます…

    よく「すべてを依存する人、自分のライフスタイルを他人に丸投げする人」について、そのように言う人がいますが、そういう人は単に「立ち位置が根本的に違っていることに気づけない人」なので「自立することを望まない」のとは少し考え方が違います。

    • 「喪失感」「不安感」「絶望感」にさいなまれ、動けなくなってしまっている
    • 自分ができることを行ってはいるけれど、わずらったやまいをどうにもできない
    • だったら、あるがままに受け入れて穏やかに過ごしていきたい

    そう言った考えの人を「自立することを望まない人」と、私は考えます。

    自分で何かをやり遂げることに重きを置くのではなく

    自分が日々穏やかに過ごすことに重きを置いた人生へとシフトチェンジする。

    こう言った人々への支援を「介護保険」で支えることが重要。

    「高齢者の自立支援」確かに必要なことでしょう。

    現に、制度下において自己実現力を養いながら、日々生活をしている人々はいます。

    しかしながら、介護保険制度の改正を幾度も行っていくことで何が起きているか。

    • 「行政はできるだけお金を出したくないから、自分でできることは自分でしろ
    • 「施設に入りたければ、自分たちで好きなところに入れ
    • 「サービスを利用したいなら利用してもいいが、お金は自分たちでなんとかしろ
    • 「認知症の高齢者がいるんだったら、自分たちで支え合って見守りなどをしろ」
    • 「要介護状態になったらお金がかかるから、どうしようもなくなったら言って来い

    これならば、昭和の時代の「向こう三軒両隣」で十分まかなえていたこと。

    自分の住み慣れた地域、顔見知りが多くいる近所。

    困りごとがあったら、立ち話や家へ招き入れての会話などで解決の糸口を探り

    子どもが悪いことをしたら、近所の人が親の代わりに叱り、励ますといった関係性。

    現行制度をあらためて見てみると「地域で支え合い」「地域包括ケア」との言葉が躍る。

    ある意味「行政に口出しされるほどに、地域が衰退している現状」であるともいえますよね。

    確固たる安心と信頼があったからこそ地域で支えられていたことが

    行政が行う数多くの施策への「黙認」「誤解」により

    とんでもない世の中が目の前に広がっている。

    ​それでもなお、利己主義と従順を以て、現状を顧みないでいる人々。

    いつまで思考停止でいるつもりなんです?​​

    自由・自立という言葉は何とも聞こえの良いものであり

    それを支えてくれるなんて素晴らしいことだと思っているのは何とも能天気なこと

    自由と自立は、何も支えてもらわなくても自分自身が行えて行けるもの。

    ここに行政が入り込むことは、はっきり言って「大きなお世話」なのではないですか?

    自分のライフスタイルは、自分だけのもの。

    過去・現在を抱いて、未来をどのように生きるか、どのように過ごすか。

    それは人それぞれであり、誰にも縛られることはありませんよね。

    家族のつながりや地域のつながりを大切に思い

    気にかけ、気にかけられることに感謝し

    一度きりの自分の人生を自分なりに謳歌おうかしていく

    介護保険被保険者証を手にしたとしても、真っさらの状態で終焉を迎えることだってできますし、使わないといけないものでもありません。

    いわば、​自己実現力のある高齢者においては、こんな制度は無用の長物。

    それならば「喪失感」、「不安感」、「絶望感」などに苛まれながらも

    自分ができることを行ってはいるけれど、患った病をどうにもできない

    だったら、あるがままに受け入れて、穏やかに過ごして行きたい と言った

    「自立を望まない人々への支援」こそ

    行政が支えてくものなのではないのでしょうか。

    資本主義→新自由主義への転換時期が

    介護保険制度スタート時期とリンクするのであれば

    このことこそが「高齢者を見捨てている」ことになる。

    以上の視点・観点から

    私は「介護保険制度なんかいらない」との結論に至っているんです。​

    では、介護保険制度がいらないとなった場合、何が大切になるのか?

    最後の「展望」の章になります。

    ぜひ、ご覧ください。


    展望:介護保険制度なき後は、こども保険制度!?

    介護保険制度なんていらない。

    その本質から背景、そして総括までをご覧いただき

    私の見解についてはお解りいただけたかと思います。

    今回、最後の章ではその「展望」として

    • 介護保険制度の本当の意味での改正のあり方
    • こどもほけん制度(次世代への支援)
    • 「この国に生まれ、生きていてよかった」と思えるような社会への提言

    へと進めて行きますので、どうぞ最後までお付き合いください。​


    介護保険制度の本当の意味での改正のあり方

     ​​

    「介護保険制度なんていらない」とのお話を展開してきましたが

    一番の課題となるのは「政治家と私たちの本気度のギャップや温度差」だと私は考えます。

    今、なんとなく生活できているとは言っても

    1年後→3年後→5年後→10年後、現状のままでいられるとは

    おそらく誰も思ってはいないですよね。

    もっと言えば、半年後→3か月後→1か月後→1週間後→明日

    自分たちがどうなっているのかなんて、おそらく「神のみぞ知る」なのではないでしょうか。

    漠然としていても、現状に不安を抱えながら生きている方々って本当に多いと思いますし

    かくある私も、その一人です。

    とかくネガティブになりそうな時には、無理からポジティブシンキングへと発想転換しながら

    日々明るく生きようと心掛けてはいますけどね。

    国内外の情勢についてメディアが垂れ流す報道も、あまり良い内容はなく

    見え隠れするものと言えば「他人事」「自己中」「保身」などで形容されるものばかり。

    これでは「行政は、政治家は、本当に私たちの暮らしや命を護ってくれているのか?」と考えてしまいますよね。(もちろん、一所懸命取り組んでいる人もいらっしゃるとは思いますが)

    赤ちゃんからお年寄りに到るまで、この国で生きる人々への「確かな安心、確かな安全」を「担保する」ことが行政の責務であり、政治家の使命であると私は考えます。

    自分にとって都合の悪いことに「耳を傾けるだけ」の人や

    「国民の生活が第一なんて考えは、間違っている」などと宣う政治屋には

    即刻お引き取りいただきたいんです。

    主観を持つことには肯定も否定もしませんが

    自分の主義主張を他人に押し付けることについては、私は許さない。

    話、戻ります。

    ​もし、現行のままの介護保険制度を残そうとするならば​、私はこれを提言したい。

    「介護予防との考え方を無くし区分支給限度額を真逆にする」​​

    平たく言えば要支援者や事業対象者が利用する介護予防サービスなるものを無くし、要介護1の限度額→現行要介護5の限度額にするということ。

    (地域包括ケアなどによる「地域で支え合い」の観点からしても、この方法であれば筋が通ります)

    要介護5と要介護1、要介護4と要介護2の単位数をにする。

    つまりは「高齢者が自己実現力を高め、自分で元気に暮らして行くために医療系・介護系の様々なサービスの利用を可能とする」のであれば、現行の限度額では本末転倒

    介護度が1や2の場合、特別養護老人ホームへの入所は原則できないことを考えると、介護度が3~5になってから、たくさんのお金を負担しないと入所サービスを受けられない。

    であれば、自己実現力を付けたい高齢者をに手厚くすることが、現行の介護保険制度の理念に適っていますよね。

    「高齢者の自立支援」との理念を謳うのであれば、高齢者が施設入所や在宅で穏やかに暮らすことを望まれる場合、負担限度額を低く設定し、施設入所をスムーズに行えるようにすること。

    施設やお家で介護する場合に必要となる日用品や消耗品などについては、介護保険制度とは別枠の助成をもっと手厚いものにするなど、行政がきめ細やかにバックアップすることが重要です。

    では、介護保険制度をなくしてしまうとするならば、どのようにして行くか。

    次世代へのバトンタッチを考えるのであれば

    歪みまくった世代比率を正常なピラミッド化にして行く方法を取らなければ

    すべての面で破綻する。

    出生率を上げること」「人工死産・周産期死産数を減らすこととして

    • 生まれてきた喜びを、死ぬまで持ち続けられる
    • 不安少なく、誰もが夢を持ち、チャレンジができて、少なからずカタチにできる
    • 失敗しても必ず行政がしっかりと支え、再びチャレンジできるような体制をつくる

    これらのことをしっかりと国が保障し、担保できるかどうかにかかっていると私は考えます。

    ​​そこで出て来るのが「こどもほけん制度」です。

    こどもほけん制度(次世代への支援)

    ​​

    こどもほけん制度とは言っても、別に本当に制度化することではありません。

    むしろ制度化しなくても、私たち一人一人が行って行けるものです。

    結論を言うと

    子どもの目線で世の中を見て、子どもの思考で世の中を考え

    手をつなぎ歩調を合わせることで国を成長させて行く ということです。

    具体的には、こんな感じです。

  • 次世代を担う子どもたちへ、大人ができることをしっかりと諭して行く
  • 子どもたちが今の社会についてどのように感じどのように思っているのかをしっかりと話してもらうその際には、決して肯定も否定もしない
  • 子どもたちが危機に直面した際には全力で護りぬく
  • 子どもたちが失敗した際の訊き方(要因は)なぜ?ではなく(要因は)何?
  • これからどうして行けばいいかについては、子どもたちからの考えや答えを待ち、「傍らで見ているから、思い切ってやってみよう。大丈夫」と背中を押し、成功を誰よりも喜び、失敗は成功への道標との考えの下で、また糸口を探る
  • ​このことの繰り返しによって

    人が成長→社会が成長→経済が成長→国の成長 へとつながって行くのではないでしょうか。​

    子どもの何気ない疑問「どうして?」から始まる一連の内容)
    
    子どもの素直な意見
    (大人って、すぐに「無理無理」って言うね。励ましてもらわないでいいから貶さないでほしい)
    
    子どもの鋭い視点さっき言ったことと違わない?自分の言ったことを忘れないでほしい

    ​子どもは、大人が想像する遥かに広い視野で、しっかりと社会を見ています。​

    だからこそ私はしっかりと向き合い、一人の仲間として理解し、尊重し

    一緒に歩みを進めて行く必要があると考えます。

    ​根幹は「子どもこそが社会のトップリーダーである」との考え方。​

    この考え方の下で介護保険制度のことを考えた時

    今の社会がどれだけ歪んでいるかが見えてくるのではないでしょうか。

    多くの子どもたちの誕生を賞賛し、育み、成長を喜び合うことができる社会であれば

    「愛し合い、求め合い、安心して赤ちゃんを望む」ことができるのでは?

    誰かが誰かを想い、誰かが誰かを気にかけ、互いに感謝し合える。

    遠く離れていても、想いはしっかりとつながっていることが「日常」である社会であれば、疎遠などにはならないのでは?

    人が生きるために必要なことの最小・最大の限度幅を拡げ

    多角的な見地の下で、どんなに多様なケースにも対応できるような

    しっかりとしたセーフティーネットを創り上げて行く。

    公示として、何処にあるのか分からないような掲示板に貼り出しておくのではなく

    手続きするにも窓口まで来させるのではなく、自ら出向いて「すべての人々に周知し、理解をしてもらう」くらいの気位や熱量を持った行政であれば

    「騙くらかして税金を吸い上げる」なんて姑息な手を使わなくても、人々は必要性を考え、納税をするのでは?

    ​​

    これまでにお伝えしてきた背景に照らし合わせてみても

    このことは如実に表されているのではないでしょうか。


    「この国に生まれ、生きていてよかった」と思えるような社会への提言​​​

    「美しい国づくり」と宣われた人がいらっしゃいましたね。

    おそらく、その人と私との「美的感覚」は異なっているのでしょうが、その人の見ている「美しい国」って「結構なまでにくすんだフィルターが幾重にもかかっている」のではないでしょうか。

    この国に根付く素晴らしい風土、良き風習を護り、生活する人々の笑顔を護り、支え合い、労り合い、喜びと感謝を持ち合わせ、誰もが不安少なく日々の暮らしを行え、終焉を迎えた時には「この国に生まれ、生きて来てよかった」と思えるような社会を築くことこそが「美しい国づくり」だと私は考えます。

    この国に生まれて来てくれてありがとう。

    きみも今日から私たちの仲間。

    たくさんの夢を抱いて、未来を一緒に創って行こう!

    そんな言葉が、日本の何処でも聞かれるような社会、国であってほしいですよね。

    そして、このことこそが「1億総活躍社会の実現」へとつながるということ

    私からの提言としたいです。


    まとめ

    介護保険制度なんかいらない

    今の世の中において、このタイトルはある意味「奇異なもの」なのかもしれません。

    なぜなら誰もが「超高齢化社会において必要不可欠なもの」と思い込んでしまっているから。

    しかしながら、これまでお伝えした内容を振り返った時

    私たちにとって何が一番大切なものなのかが見えてくると私は考えます。

    考え方が真っ当ではなく、元々狂っている思考の人たちが長年に亘って創り上げてきた制度ですから、生半可なことでは崩れないようにできています。

    ただ、スタート時点から建付けが悪い制度なので、改正という名の継ぎ接ぎをしても、その屋台骨は大きく傾いていることは事実ではないでしょうか。

    この国は誰か1人のものではありません。

    この国に生きるすべての人々のものです。

    正しいことは正しい、間違っているのものは間違っていると声を上げていいんです。

    事の本質を見ずして、その場の空気に流されている場合ではありません。

    あなたを含めた私たちがこれから歩む人生の「その先」だけを見るのではなく

    次世代を担う若者や子どもたちの未来も一緒に見てほしい。

    子どもたちが無邪気にはしゃぎ、明るい笑い声が心地よく響く穏やかな日々が訪れた時

    私がいう「介護保険制度なんかいらない」は現実のものとなるでしょう。

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