今回の【実録】介護の本質chは
【介護支援の原点】誰もがみな、命の現場で
~みんなで考える「命に対する考え方の希薄さ」~
筆者が福祉業界で経験した約25年の歩みにおいて、今なお抱き続けている懸念…
それは介護や医療のみならず今、目の前に広がる社会全体に対するものと同じものなのです。
冒頭にお伝えした「命に対する考え方の希薄さ」がそれに当たるのですが
どういったことなのか?
この記事では、社会全体ならびに介護現場に焦点を絞る形で
その懸念についてお伝えしながら
「介護支援の原点」ともいうべき基本的な視点や考え方について認識を深め
今を生きるすべての人々に「命について考えるきっかけ」を持ってもらいたいと考えます。
まず、筆者の経歴を簡単に紹介しておきます。
平成7年8月、老人施設での清掃ボランティアからスタートした私は、その後高齢者介護を志すようになり、施設での介護を7年半。この間に介護福祉士資格を取得しました。 必死に介護と向き合い、走り続けた代償は大きく、体調を崩し、ついには高齢者への直接介護にドクターストップがかかってしまうことになったんです… 「燃え尽き症候群」のような感じで心も身体もボロボロになり、1日中遮光カーテンを閉めてずっと引きこもっていた日々… 現場での介護を諦めざるを得なくなった私は「遠くから、近くから、高齢者介護への関わりを行うこと」へと転換することを選び、平成15年10月、背水の陣でケアマネージャー試験を受け、合格! 平成16年4月にケアマネージャーとなった私は、居宅ケアマネージャーとしての活動が7年半。 そして「新たなる挑戦」と「恩返し」の意味合いから、施設でのケアマネ業務を8年に亘って務め、主任ケアマネージャーとしての仕事を1年した後、現在に至っています。
そんな筆者には、福祉業界に足を踏み入れた時から25年経った今でも変わっていない
「社会に対する懸念」があります。
その懸念とは何なのか?
それは高齢者施設で従事する介護従事者だけではなく、すべての人々に言えること。
それが、命に対する考え方の希薄さということなのです。
その真意については、以降の章でお伝えします。
社会に広がる「命に対する考え方の希薄さ」とは
昔からそうでしたが、最近になってまたよく耳にするのが「命の現場」というワード。
命の現場と聞いて、あなたは何を思い浮かべるでしょうか?
おそらく「病院」や「診療所」が真っ先に浮かんで
その後に「老人福祉施設(特別養護老人ホーム)」や
「介護老人保健施設(老健)」、「グループホーム」などが浮かぶのではないでしょうか。
そうなると「介護療養型医療施設(介護医療院)」「有料老人ホーム」や
「サービス付き高齢者住宅」なども「命の現場」といえますよね。
もう、ないですか?
「高齢者」として考えてしまうと出て来ないかもしれません。
もっと広い視野で見てみましょう。
例えば、こんな場所はどうでしょうか?
- 子どもたちが通う「学校」や「保育園」、「幼稚園」、「こども園」
- サラリーマンがお勤めされている「会社」や自営業されている人の「お店」
- 主婦(主夫)が日々の買い物をするために赴く「スーパーマーケット」や「ショッピングモール」
- 健康のために通う「スポーツジム」
- 汗を流し、リフレッシュするために利用する「サウナ」や「スーパー銭湯」
- 商業娯楽施設として「遊園地」、「映画館」、「コンサート会場」
- 野球やサッカーなどのスポーツ観戦の目的で赴く「競技場」や「スタジアム」
- 逆に身近に考えたら「自宅」もそうです。
こんな風に考えると、まだまだあると思いますが
こういった場所においてもある意味「命の現場」といえるのではないでしょうか。
どうしてそう言えるのか?
これらの場所は、すべて「人と人とが関わり合う場所」だからです。
社会生活の場において、人と人とが関わり合う場所には「命」は存在しています。
町中を歩いていて急に誰かが転んだり、苦しそうに座り込んでいたとしたら、
あなたはどうしますか?
一般的には
- ・人工呼吸や心肺蘇生を試みる
- ・近隣の施設などからAED(自動体外式除細動器)を持ってくる
- ・救急車を呼ぶ など
その場に居合わせた人たちと一緒に「命を護る行動」をするでしょう。
まさかとは思いますが
「見て見ぬふりしてその場を立ち去る」なんてことはしませんよね。
「誰かがやるから私はいいだろう」
「私は関係ないし急いでいるから」などと考える人たちこそが
「命に対する考え方の希薄さ」に侵されてしまっているのではないでしょうか。
こういった人が仮に介護や医療現場の中に大勢いるとすれば
あなたは安心して歳を取ることができるでしょうか?
次の章では、介護現場に焦点を当てて
命に対する考え方の希薄さについて見てみましょう。
続きをご覧ください。
介護現場における「命に対する考え方の希薄さ」
施設での高齢者の生活で考えた場合、先程お伝えした内容と同じことがいえます。
施設での高齢者の暮らしにおいてよく目にしたり耳にするのが「介護事故」と呼ばれるもの。
代表的なものが、この4つ。
- 転倒
- 打撲
- 皮下出血(内出血)
- 表皮剥離(皮膚がめくれてしまうこと)
転倒や打撲においてはある意味避けられないものなのかもしれませんが
内出血や表皮剥離といったものは避けようと思えば避けられそうな感じがします。
(あくまでも私見ではありますが)
事故や急変が発生した場合、多くの場合が看護師による状態確認と
主治医や嘱託医からの指示による素早い処置にて対応をするのですが
事後の状況を報告しても、多くの場合に返ってくる反応が
「気がつきませんでした」や「私は知りませんでした」
中には事後の状況だけで判断して「大事に至らずで良かった」といってしまう人も…
「大事に至らずで良かった」と言うのは簡単なことですが
「大事に至った場合のこと」を真剣に考えて言っているのかどうなのか…
このことからも「命に対する考え方の希薄さ」が透けて見えますよね。
懸念払拭のために大切なのは「今、目の前にある命を護ること」
この懸念を今も抱き続けている私ではありますが
払拭することは簡単にできると思っていますし
それは何もお金や道具などを必要とするものではありません。
先のお話でも少し触れた部分がありましたが
高齢者に携わる介護従事者だけではなく
今を生きる人々すべてにおいて、誰においても最も大切なことがそれに当たります。
それは
今、目の前にある命を護ること を
誰もが認識すること です
誰もがみな不安なく、安心して笑顔が溢れる日々を過ごすために「施設で従事しているから」「いないから」ではなく、どんな場面においても今を生きる私たちが心の中にしっかりと抱いておくこと。
それが
今、目の前にある命を護ること になります。
そして、そのことをただぼんやりと思うのではなく
誰もが言動に移していくことが
互いに支え合い、労り合うことへとつながって行くのではないでしょうか。
まとめ:「誰もがみな、命の現場にいる」と認識しましょう
最後に、閉塞した現世において懸命に生きている人々、それを支える多くの人々の想いを、ケアマネージャーの責務である「アドボカシー(代弁者)」として、無関心や自己中、好き放題にやっている人々へ向けてこのメッセージを贈り、結びとしたいと考えます。
あなたの命はたった1つしかありません
あなたという存在もたった1人しかいません
そのあなたの唯一無二の命を傷つけられても
苦しんでいるあなたの存在も
誰にも気づいてもらえないとしたら
あなたはあなたで無くなってしまうのではないですか?
よく考えてもらいたい
「命に対する考え方の希薄さ」を生み出す諸悪の根源が
あなたの命や存在を、あなた自身が無関心でいることなんだということを
誰もがみな『命の現場』の中にいる
誰もがみな『命の現場』で動いている
そして誰もがみな、命とともに生きている…
支え合い、労り合いながら今、目の前にある命を護って生きましょう
誰もがみな、命の現場にいる
今を生きるすべての人に
この言葉の意味や想いが届くことを願っています。
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