今回の【実録】介護の本質chからは
介護・福祉は「禊」という名の罰ゲーム?!
というお話を展開していきます。
現世に限らず、これまでにも数多くの著名人の方々が、何か不祥事を起こした後にほぼ同じ言動をされていることに懸念を抱きつつ、今日まで来ました。
それは「介護施設でボランティアや介護をすることで更生し、禊とする」旨の言動です。
実際に受け入れてくださる介護施設はあり、そこで暮らす高齢者や障がいを抱えながら過ごす人々との関わりの中で、ご自身のこれまでの行いを悔い改めるきっかけを掴んで、新たな出発をされることは良いことだとは思います。
しかしそれって「禊」というよりもむしろ「自己満」だと、私は考えます。
そう考える要因は何なのか。
私の見解をお伝えしますので、最後までお付き合いください。
それでは始めていきましょう!
「生活の場」を乱すことは「禊」と言えるのか?
介護施設といっても様々ですけど、どれもみな「生活の場」です。
高齢者や障がいを抱えながら暮らす人々の「生活の場」。
そこには介護福祉士や生活相談員(相談支援員、支援相談員との名称あり)、看護師や(管理)栄養士、(主任)介護支援専門員などの専門職が、入居者様の暮らしをしっかりとサポートしていることは、あなたもご存知のことでしょう。
そんな中、著名人の方が「ボランティア」であっても来られた場合、あなたが入居者様であればどんな気持ちになるでしょう?
「わぁ!テレビでいつも見ている人だぁ!」という気分の高揚はあるでしょうし、「何をしにここへ来てるんだろう?」という疑問を抱くことでしょう。
その時点で既に「日常とはかけ離れた生活」になってしまいますよね。
ここからは推測ですけど、現場スタッフも「この方に何をしてもらえばいいのか」と考えながら、当たり障りのないことをしてもらう程度で済ませてしまうのではないでしょうか。
仮に「3大介護」と呼ばれる「食事・排せつ・入浴」を指導の下で行ってもらったとしても、「ただ介護した」では意味がないと、私は考えます。
それって「特別視」から抜け出せておらず、「一人の人間として更生する」という意味合いからはやはり離れていますよね。
このことをメディアが報道することについても「取材」が入る訳ですから、先程お話した「日常とはかけ離れた生活」になってしまいます。
介護施設での暮らしで1番重要視されることは「日常の持続性と継続性」です。
認知症高齢者であればなおのこと重要になります。
普段の生活の中で、自分のお家に著名人が来ることってありますか?
あっても極めて稀なのではないですか?
いくらテレビから姿を消したとはいえ、目の前に「どっかで見たことある人」がいたら、そのことにばかり気が行ってしまって、時間の流れが狂ってしまうのではないでしょうか。
数日間ではあっても、乱れた時間の流れを取り戻すことは簡単ではありません。
だからこそ「リアルでガチンコ」で、専門職たちは一所懸命入居者様の暮らしを護っているんです。
その気はないとしても、社会的パフォーマンスとして介護施設での関わりを行うのであれば、はっきり言って迷惑ですし、「禊というのは自己満に過ぎない」というのはこの段階で理解できると私は考えます。
何を以て「禊」なのか~罰ゲーム化する介護・福祉への思考
世間一般では「不祥事を起こす→謹慎(自粛)する→介護・福祉に従事する→社会に認められて復帰(第二の人生)していく」との図式があるように私は感じています。
不祥事を起こして謹慎するのは良いとして、そこから介護・福祉に従事するという考えに到ることが理解に苦しむところです。
介護・福祉施設は更生施設でも刑務所でもありませんから、社会更生の場として考えられるのには甚だ遺憾であり、その思考に到る方々の脳内神経を私は疑います。
こういった考えに到る背景としては
- 社会に貢献して良いことをしている
- ぱっと見て分かりやすい
- 汚いことやしんどいことをすることで心の痛みを知る
などが考えられますが、あくまでも「イメージ」が先行する形であり、実際の現場で従事する方々の思いとは違います。
禊として最も大切なことは「事の本質を視ること」だと私は考えます。
私が考える「禊」の手順は
- 不祥事を起こした要因は何なのか
- その時の自分の思いはどうだったのか
- 周りの方々に波及した影響の大きさはどれくらいなものか
- それについて自分が感じたことは何か
- 現状をしっかり理解し、今後について自分の言動をどのようにしていくのか
この順番を経て初めて禊を始められると考えますけど、このことをあなたの考えと照らし合わせてみてください(さほどかけ離れていないとしたら有難いです)
これを先程お話した「図式」を当てはめた時、「図式の通りに事が運ぶ」のがよく分かりますよね。
しかし考えてみてください。どこかズレていませんか?
事の本質を視ることで、導き出される答えは「たった1つ」なのでしょうか?
私は「現状をしっかり理解すること」の段階でズレが生じて、結果として間違いを起こしているのではないかと考えます。
どうして間違いと言えるのか。
それをすることを「当事者が本当に望んでいるのか」という考えがあるからです。
禊を行うことって、そもそも「介護・福祉施設で働くこと」ではありません。
「罪や穢れを祓うために、川や海の水で身を清めること」です。
(よく見かけるのは「滝行」ですけどね)
当事者が不祥事を起こした方に対して望むことは「現在の保障」と「今後の展望」です。
その方々の思いのすべてと向き合い、受け留め、1つ1つを誠心誠意返していくことこそが大切なのではないでしょうか。
「介護・福祉施設で働くこと」と短絡的に導き出し、それを取り巻く方々までもが、まるで「罰ゲーム」の如く考えているように、私には見えます。
議員を辞職してお遍路さんをして禊とする方もおられましたが、こちらの方がまだマシです。
どうしてか?
「自分と向き合い、当事者の気持ちとも向き合えることをしているから」です。
ある意味「1つの選択肢」とすることは100万歩譲ってOKとしても、それを実践する際には「当事者の気持ちと向き合えていることなのか」を自問自答する必要性があると私は考えます。
そうでなければ「ただの自己満」にしか過ぎないですし、本当の意味での「禊」にはならないですし、ひいては介護・福祉を冒とくしている行為だと私は考えます。
まとめ
今回は「介護・福祉は禊という名の罰ゲーム?!」というお話をしました。
1人の人間として考えれば、誰しもが間違いや失敗をしてしまうものですが、自分自身と周りの方々、当事者の方々のすべての思いとしっかりと向き合い、受け留め、「今、何を求められているのか」「今後、どのように生きていくのか」などを言動で示していくことで、本当の意味での「禊」が行えるのではないでしょうか。
人間にとって一番大切なものは「まごころ」「愛」です。
「まごころこそ最大の福祉」であり、何よりも尊いものだとお伝えして、今回の結びとしたいと考えます。
ありがとうございました!
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