【実録】介護の本質chからお送りしている「24時間テレビを考える」
今回で3回目。最終回となるテーマは
「感動ポルノや偽善と揶揄する者たちの真意と本当の理由」です。
1978年、民間テレビ放送開始25年を記念して通常のテレビプログラムを24時間休止し、「今、テレビに何ができるか」を、みんなで一緒に考えて行くとのことでスタートした 「24時間テレビ☆愛は地球を救う」。
本質であるところの「コンシャスネス・レイジング」を残しているとはいえ、視聴率至上主義の下での大きな企画編成の変革により、その本質は抽象化し、次第に「ただの24時間のバラエティー番組」との認識を強めて行っている…
そして「あること」がきっかけとなり、24時間テレビの存在意義すらも否定されつつあるようです。
その「あること」により、偽善のみならず感動ポルノとまで揶揄された24時間テレビの今後について、私の見解や提言をお話して行きますが、そもそも論として「感動ポルノって、何?」と言う疑問も湧いてくるのではないでしょうか。
今回は
- ◎「感動ポルノ」とは何か。
- ◎「感動ポルノ」と揶揄する者たちの真意とは?
- ◎「偽善」と称される理由とは何なのか。
この3点について押さえて行きながら
最後に私の見解をお伝えすることにしていますので、どうぞ最後までご覧ください。
それでは始めていきましょう!
「感動ポルノ」とは何か
「感動ポルノ」と言う言葉。
最近とみに耳馴染みのある言葉になりましたが、実際のところ、意味するものってどういうものなのか。分からない部分があると思うのです。
そもそものきっかけとなったのは、2012年より現在もNHKのEテレ(旧・教育テレビ)で放送されている、日本初の障害者のためのバラエティー番組「バリバラ」(バリアフリーバラエティーの略)でした。
『バリバラ』で2016年に放送された内容について詳細に記されている記事がありますので、そちらの方を引用する形でご覧いただきます。
2016年8月、『バリバラ』は『24時間テレビ』が佳境に入りはじめた真裏の28日19時からの放送で「検証!〈障害者×感動〉の方程式」と銘打ち、真っ正面から「障害者に感動は必要なのか?」と疑問を投げかけた。
番組は骨形成不全症を抱え2014年に亡くなったジャーナリスト・コメディアンのステラ・ヤング氏によるこんなスピーチを紹介した。
手がない女の子が口にペンをくわえて絵を描く姿。 カーボンファイバーの義肢で走る子ども。 こうした姿を見たとき、みなさんは『自分は人生は最悪だけど、下には下がいる。彼らよりはマシ』だと思うでしょう。私たちはこれを感動ポルノと名付けました。
感動ポルノとは、具体的にどんなものなのか。
『バリバラ』では「たぶんこんな番組のこと」と言いながら、一例として「感動ドキュメンタリー 難病になんか負けない!」なる架空の番組を放送した。
出演者は、本家『24時間テレビ』にも出演したオリンピック柔道の元代表選手で、現在は多発性硬化症を患っている大橋グレース愛喜恵氏。
悲壮感漂うピアノのBGMに乗せて紹介されるグレース氏。ナレーションは暗い調子で彼女の障害の重さを切々と伝える。
──放送開始からスタジオでノリのいいトークを見せていたグレース氏を視聴者は観ているだけに、この典型的な障害を抱えた大変な人という描かれ方だけで大爆笑だ。
次に、グレース氏は口からご飯を食べることができないため、胃に開けた穴にパイプを差し込み、直接栄養を摂っていると伝えられるのだが、そこでディレクターが「大変ですよね」と声をかける。
当然、ここでテレビが欲しいのは苦労の言葉だが、グレース氏はとくに表情も変えず「いや、意外と食べる手間も作る手間も省けるので、そんなことはないですけどね」と返答。
「いや、大変でしょ」とディレクターは畳みかけるが、グレース氏は「楽ですよ、むしろ」。このグレース氏のあっけらかんとしたコメントは、感動ポルノでは「放送しない部分」だとテロップ解説が入る。
また、多発性硬化症を発症したときのことを回想するシーンでは、ディレクターが「相当ショックだったでしょうね」と、発症して柔道もできなくなってしまった当時のことを質問すると「いや、でもその病院にめっちゃイケメンの先生がいて、めっちゃテンション上がりまくりでした」
もちろん、これも「放送しない部分」だ。
『24時間テレビあるある』と称される、大変な生活なのだという演出に加え「過去の栄光」がクローズアップされ、「悲劇」を畳みかける。その上で「仲間の支え」が語られ、締めは「いつでもポジティブ」
これこそが「感動ポルノ」だというわけだ。
如何だったでしょうか?
近年の24時間テレビの内容について真正面から斬り込んだ指摘だと私は思います。
「感動ポルノ」との表現については賛否はあるにせよ「言い得て妙」だと私は思います。
ただ、これだけでは「単なる番組批評」の域を出ない部分もあるのも事実。
『バリバラ』が何を以て、しかも真裏の時間帯での番組放送を挙行したのか。
その真意については、次の章でお伝えします。
「感動ポルノ」と揶揄する者たちの真意とは?
障がい者との共生を掲げる24時間テレビが、その当事者たちによって揶揄されることについては、筆者も何とも言い難いものはありますけど、彼らをここまでにさせる理由が必ずあると思うのです。
それは、彼らが「当事者」として語る部分をご覧いただくことで
「単なる番組批評」ではないことが分かります。
続きをご覧ください。
まさに「感動」を日本中に届けている『24時間テレビ』の真裏で、障害をもつ当事者たちが「感動の材料にしないで」と声を上げる。
この『バリバラ』の問題提起がネット上で大きな話題となったのは、『24時間テレビ』の感動の押し売りに違和感をもっていた人たちにとって、溜飲が下がるものだったからなのだろう。
※溜飲が下がる…不平不満や恨みなど胸のつかえが下りて、気が晴れること。
実際、現在の『24時間テレビ』は「感動ポルノ」と批判を受けても仕方がないものだ。
というのも同番組は、いつものように障害者のチャレンジ企画を放送する一方で、同年7月に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起こった殺傷事件について、番組として言及することは一切なかったからだ。
津久井やまゆり園・障害者殺傷事件とは…
(事件概要などの詳細は、リンクを貼り付けておきますのでご覧ください)
事件の容疑者は
「障がい者なんていなくなればいい」
「障がいはすべてを不幸にする」
「障がいには税金がかかる」
という考えから障がい者の命を奪ったが、この事件は同時に、社会には容疑者と似たような価値観が広がりつつあることをも明らかにした。
そして、いまもなお、障がいを抱える人びとはその社会に対し、自分も襲われるのではないか、いなくていい存在だと思われているのではないかと、大きな不安を抱きながらの生活を余儀なくされている。
そんな中で、障がい者との共生をひとつのテーマにしてきた『24時間テレビ』が真っ先にやるべきことは、事件に触れた上で障がい者の「生きる」を全面的に肯定し「なくなっていい命などない」というメッセージを発信することだったはずだ。
そうした問題に向き合うことなく、ただ障がい者の悲劇とポジティブさを描いて感涙しているだけなら、それは「感動ポルノ」と誹りを受けて当然というものだ。
(ちなみに『バリバラ』は、事件発生後まもなく緊急で事件のことを特集し、優生思想が社会に広がっているのではないかと警鐘を鳴らしている)
ちなみに、この年の24時間テレビのメインテーマは「愛~これが私の生きる道~」でした。
痛ましい事件の1ヶ月後となる本放送のメインテーマとしてはあまりにも漠然とし、サブテーマに到っては、果てしなく見当違いのものだったのではないでしょうか。
「感動ポルノ」との批判などについて、番組の生みの親である都築忠彦氏は、前回ご紹介した週刊文春のインタビューの中で、このように仰っています。
銭儲けのために障害者を見世物にして、視聴者が見そうな話やシーンをわざと選んでいる。 という話でしょう? でも「これ儲かるんとちゃうか」といって企画を考えるプロデューサーなんていませんよ。 伝える意義があると思うことが出発点ですよ。 マイノリティが努力して障害を克服する姿を、子どもたちが見て感動することを僕は“感動スイッチ”と呼んでいます。 感動スイッチによって世の中が動き、差別撤廃のきっかけになることもありますが、現在は、障害は個人が持つ属性であり、それを乗り越えるのは個人の責務とする「医療モデル」から、社会が障害者にとっての障害(障壁)を作っており、その障害を取り除く責務は社会の側にあるという「社会モデル」 が主流になってきています。 ただ、医療モデルから社会モデルに変換したのも割と最近のことで、番組開始当初はプロデューサーたちにも偏見があって「障害者を映すなんてとんでもない、視聴率が下がる」、「スポンサーが逃げるからやめろ」なんて言われていたんですよ。 そんな時代に視聴者が関心を持つ形で障害者を画面に出せたら、それが必ずしも社会モデルと合致する表現でなかったとしても「前進」と言って良かったはずです。 マイノリティを題材にした問題提起のドラマもいくつも制作しましたけど、今よりもマイノリティへの関心が低い時代ですから視聴率が良いと新聞が「こんなものが視聴率取れるなんて」と驚きの記事を載せるくらいだったんですよ。 マイナーだった問題を取り上げて、それに若者が関心を持ってチャンネルを合わせてくれた。 そして、心を動かされた。それって、いいことじゃないですか。 むしろ「感動ポルノ」と揶揄されて取り上げる機会を失い、社会問題や差別されていたり、疎外されていたりする人たちが覆い隠されることの方を、僕は懸念しています。 マイノリティーの人が表に出てくること自体が視聴者の意識を変えることになりますから、医学的じゃない社会的なバリアがあるんじゃないかという問題意識は、映画や小説、ブログやテレビ番組でいろいろなきっかけを与えていけば、どんどん広がっていくと思いますよ。
内容からすれば、多少の論点のズレはあるように感じますが
言わんとするところは「コンシャスネス・レイジングの重要性・必要性」だと考えます。
では、『バリバラからの問題提起』の本当の意味とは、一体何なのでしょうか?
バリバラからの問題提起として、当時の番組レギュラーの方々の発言を含めてご覧ください。
そして、そのすぐ後に「偽善と称される理由とは何なのか」について触れて行きたいと考えます。
だが、それでも注意しなければいけないのは
こんな世の中では『24時間テレビ』も重要な意味を果たしているということだろう。
ネット上では『24時間テレビ』を否定するために
『バリバラ』を賞賛する向きがあるが、それは違う。
現に、番組司会者の山本シュウ氏は番組中一貫して「きょうは障害者がもっとも注目されるお祭り」「We are親戚」と語り、『24時間テレビ』へのリスペクトを示していたし、出演者は「24時間テレビからオファーがあったら出演するか?」という質問に全員が手を挙げていた。
それはきっと、『24時間テレビ』のように年1回でも障がい者を大々的に扱う番組がなくなってしまえば、障がい者はさらに社会から蚊帳の外に追いやられてしまう可能性があるからだろう。
たとえ健常者による上から目線の番組だったとしても、障がいに対する理解があるとはいえない現在の社会状況では『24時間テレビ』が「感動ポルノ」だったとしても、「こんな難病があるのか」と知る機会になったり「何か手伝いをしてみたい」と考える貴重なきっかけになっていることは否めないからだ。
『バリバラ』の中で、脳性麻痺を抱える番組レギュラーの玉木幸則氏は、こんなことを言っていた。
「同じ人間として一緒に怒ったり、一緒に笑ったり、一緒に思いを重ねていくということが、実はホンマの感動なんじゃないか」
イギリスでは、1992年に障害者を一面的にしか取り上げないチャリティ番組に対して抗議が起こり、96年に公共放送局のBBCは「障害者を勇敢なヒーローや哀れむべき犠牲者として描くことは侮辱につながる」というガイドラインを定めたという。
そのことを考えると、日本の『24時間テレビ』をはじめ、テレビでの障害者の描かれ方はまったく前時代的なまま止まっているといえるし、その背景には、日本の障害者福祉が地域に根付いていない実態も関係しているだろう
一緒に怒り、一緒に笑い、一緒に思いを重ねる──。
そんな「感動」がある社会なのならば、相模原のような事件が起こっても、容疑者の歪んだ思想にもっと大きな拒否の声をあげ、なにより障害者の不安を取り除くために何をすればいいかを主体的に考えることができる、そんな番組がつくられていたのではないか。
そう思うと『24時間テレビ』を糾弾するより前に
私たちはまず、この社会の障害者を取り巻く環境から考えなくてはいけないのではないだろうか。
『バリバラ』は、単に『24時間テレビをあげつらった』のではなく「障害者と健常者が一緒に感動できる社会をつくるには?」という根本の問題まで投げかけていた。
そのことは、けっして忘れてはいけないはずだ。
「偽善」と称される本当の理由とは何なのか
24時間テレビやボランティアなどにおいて、「偽善」という言葉をよく耳にします。
世の中において「善」とする言動には、純粋で混じりっ気のないものと考えてしまいがちですが、そもそも発展途上の人間ばかりが集う社会においては「善」などと言うものは崇高なもの過ぎて、目の前に広がるほとんどすべての「善」は「偽善」ということになります。
「感動を押し売りして」、「ボランティアって言ってるのに」
この後に続く言葉の最たるものは「お金をもらっている」ではないでしょうか。
お金に関することについては、後の「まとめ」で触れますが
筆者は「24時間テレビ」が40年以上続いてまでも
未だ続けなければならない理由は「偽善だから」だと思うのです。
それは番組制作のみならず、番組を観ている視聴者においても、発展途上人の集合体が何某かの問題提起に個人差はあっても「気づき」、ある人は募金、ある人はボランティアに参加し、ある人は当事者への涙と感動を以て自分の感情を表現するというものだから。
そう考えた場合、24時間テレビ自体が偽善であることになりますが
決してそうとは言い切れない。
なぜならそこにあるのは、困っている人や苦しんでいる人を見かけたら「なんとかしてあげたい」、「自分にできることで助けたい」とする「人間が本来持ち合わせている純粋な感情」だからです。
「出口が見つからないがために、形にならない善意がある」
インタビューの中で、都築氏は、こんなことを述べられていました。
その「形にならない善意」を「偽善」というのであれば、おそらく形はどうあれ、24時間テレビの存在意義は、ますます高まるのではないでしょうか。
なぜならば
番組開始当初から現在に至るまで「愛は地球を救えていない」から。
この部分が「偽善と称される本当の理由」だと筆者は考えます。
- どんな人であっても支え合い、労り合う想い
- 「昨日よりも今日はよく眠れた」、「天気が良くて、いつもより洗濯物がよく乾いた」など、些細な出来事ではあっても感謝する気持ち
- 誰かが誰かを気にかけ、時には励まし、時には労い、時には全力で護る
これらはすべて「形にならない善意」
これらを「善」とするならば
現代社会に生きるすべての人々が「善」の意味を解り、大切に思い、その思いを自分自身から家族、愛する人、恋人、友人・知人へと広げ、今よりも遥かに多くの人々の心が満たされる社会となった時…
その時こそが「愛は地球を救う」であり
「24時間テレビの終焉」なのではないかと筆者は考えます。
まとめ:筆者の福祉に対する考え方と24時間テレビ
筆者が福祉の仕事をするきっかけになったのは「祖母の介護」でした。
しかし、福祉について考えるようになるきっかけは「24時間テレビ」でした。
「愛は地球を救う」。
まさにその通りだと感じながら、幼少期を過ごし
青春時代を過ごし、社会人になって行きました。
福祉のことを学ぶにつれて、決してきれいごとでは済まされない現実を知ることとなり、そこで蠢く様々な人間模様の中で時には心を穢され、虐げられ、ボロ雑巾のように打ちひしがれながらも、人の優しさや温かさに触れ、手のぬくもりを感じることで心が浄化され、癒され、また立ち向かう勇気をチャージして前を向いて歩んで来たのです。
世間でよく言われる「報酬が安い」、「処遇が悪い」など様々なことがある中で、なぜ福祉の仕事を続けるのか。
「報酬(お金)よりもずっと大切なものを得られるから」 これが筆者の答えです。
お金は確かに生きる上で必要なものですが、お金が全てではありません。
なぜなら、お金は「道具」にしか過ぎないから。
しかしながら、お金を道具と考えている人々のあまりの少なさに幻滅する毎日です。
お金自体に良し悪しなどなく、使い方や考え方に良し悪しがあるのです。
「お金を『稼ぐ』」ことを目的とした考え方は、遅かれ早かれその人の破綻を招きます。
心も身体もです。
筆者はあえて言いたい。
同じ稼ぐなら「お金」ではなく「心の豊かさ」の方なのだ と。
このことは、決してきれいごとで言っているのではなく、本意として言っています。
「心の豊かさで、飯が食えるのか?」と宣う人もいらっしゃるでしょう。
その考え方自体が「お金とは何ぞや」を理解していないと、筆者は考えます。
本質の部分「コンシャスネス・レイジング」に対し
私たちが必要とすることは「気づき」であり、そしてそれに対する「言動」です。
その言動とは
- ☆支え合い、労り合うこと
- ☆誰かが誰かを気にかけること
- ☆「ありがとう」の気持ちを横に広げ、つないで行くこと
これらを単的な言葉で言い表すとすれば…
「愛」ですよね。
「愛は地球を救う」。
その一つの「道具」にしか過ぎないのですよ。お金というものは。
大切なことなので何度も言いますが、第1回放送終了前に大橋巨泉さんが仰っていた言葉。
支え合い、労り合う想いと言動が愛となり、地球を救う
時代が変化しても持ち合わせていなければいけない言葉であり
人間の根幹となるものだと筆者は考えます。
福祉に限らず、どの業種でもそうですが「もっと稼ぎたい」、「もっと富を得たい」と考えている人々の顔をじっと見据えてみてください。
心を持たないジャイアンのようです。
ジャイアンは、アニメの上では「いじめっ子」、「傲慢」、「自分勝手」というイメージがありますけど、実際は「その部分のみをデフォルメされている」だけであり、家族や仲間を大切にして、仲間が危険に晒されたら全力で立ち向かう勇気を持ったカッコいい男の子です。
本来の彼の言動、それに対する周囲の受け留め方を見ても
先に述べた「形にならない善意」
- 支え合い、労り合う想い
- 些細な出来事ではあっても感謝する気持ち
- 誰かが誰かを気にかけ、時には励まし、時には労い、時には全力で護る
この3つが溢れているのではないでしょうか。
3回に亘ってお伝えした「24時間テレビを考える」
様々なご意見はあるでしょう。
批判的な考えの人もたくさんおられると考えますが、そういった人々へ。
何事においても「事の本質を視ないことは、人間にとって最大の悲劇である」とお伝えし、結びとさせていただきます。
ありがとうございました。
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