なくしものとは、見えなくしているもの。

――「それ」はいつから見えなくなってしまったのか。
現世にはびこる”真実に目を背け、暴走する正義”
―心に効く、音楽の処方箋― 【メンタルエイド】BRAND-NEW MUSIC DAYS

毎回、一つの楽曲を徹底考察し、あなたの心に癒しと力をお届けする本シリーズ。
今回は、キタニタツヤさんの楽曲「なくしもの」を取り上げます。
▶はじめに

キタニタツヤさんの楽曲「なくしもの」は、
福田ますみさん原作、綾野剛さん主演の映画
「でっちあげ」の主題歌として書き下ろされました。

この映画は、冤罪によって社会的生命を奪われた教師の実話をもとに、その背後にある“でっちあげ”という構造的な暴力を描いています。
そしてこの楽曲には、
「声なき声」や「本質を見ようとしない社会」と、私たちはどう向き合うのか――
そんな問いかけが、深く静かに込められているように感じます。
本記事では、楽曲のイメージやタイトル、印象的なフレーズを丁寧に読み解きながら、
映画の背景も踏まえ、「なくしもの」が伝えようとしている想いに迫っていきます。
どうぞ最後まで、お付き合いください。
▶楽曲イメージ

初めてこの曲を聴いたとき、筆者の脳裏に浮かんだのは、
“お墓に顔を埋めて泣き崩れる人の姿”でした。

花束すら風に吹かれて、どこか遠くへ転がっていく――
そんな、どうしようもない「喪失感」。

それでも、人はその場から立ち上がらなくてはいけない。
生きていかなければならない。
この曲は、
【重たい真実と、どうしようもない孤独】を極限まで繊細に描きながら、
その中にある、
【事の本質を見抜き、そこに光を見出す希望】を、
ドラマティックに、そして美しく表現している――
そう筆者は感じました。
▶歌詞の意味を徹底考察!

それでは、いよいよ歌詞考察に入ります。
楽曲の中で一番強く印象に残るフレーズをピックアップして、深掘りしていきますね。
※JASRAC管理楽曲のため、すべての歌詞は掲載していません。
詳しく知りたい方は、以下のリンクからご確認ください。
■ 「何を失くしてしまったかさえも分からなくて」
■ 「けれど大事にしてたことは憶えていて」
この2行からは、極限状態の中でも冷静さを保とうとする心情がにじみ出ています。
「何を失ったのかさえ分からない」
――これは、
同調圧力や世論の暴走によって、自分の意志や価値観が見えなくされてしまった人間の心の迷子状態
とも言えるでしょう。
一方で、「けれど大事にしてたことは憶えていて」には、
ほんの微かな救いのような光が宿っていると感じます。
では、その“大事にしてたこと”とは何だったのか?
映画の内容を踏まえるなら、それはきっと、「人間としての尊厳」、そして「信頼」。
さらに、教師としての本分――“教え、育むこと”だったのではないでしょうか。

ここで注目したいのは、
“教師(ティーチャー)”ではなく、“教諭”――
つまり、“教え諭す”という在り方への目覚めです。

これは、単なる知識の伝達者ではなく、
人として、心の声に寄り添い導く者であろうとする姿勢。
この気づきは、
同調圧力に屈することなく、真の正義とは何かを自らに問い続けるきっかけとなっているようにも感じられます。
■「いつか誰かが拾ってくれるでしょうか」
■「探し続けていたら、伽藍洞に向き合えたら」
■ 「いつか生きてて良かったと思えるでしょうか」
特に注目するのは、このフレーズ。
「いつか生きてて良かったと思えるでしょうか」
このフレーズには、
全てを失った者が、なおも希望を手繰ろうとする切実な祈りが込められているように思えます。

仮に、冤罪が晴れ、事の真相が明らかになったとしても、
砕けた心が癒える日は来るのか?
社会から再び“教え育むこと”を、あるいは“教え諭すこと”を
許してもらえる日が来るのか?
そんな葛藤と、それでも生きていたいという願いが、この一文からは滲み出ています。
この問いはきっと、
「私は、私として生きていいのだろうか?」という
自己肯定の再構築にも通じているのではないか。
筆者はそう感じます。
▶「なくしもの」というタイトルに込められた本当の意味

キタニタツヤさんがこの楽曲に「なくしもの」というタイトルを与えたことには、非常に意図的な言葉選びが感じられます。
「なくしもの」は、「なくしたもの」とは違います。
そこに過去の一点ではなく、今もどこかにある“喪失の感覚”が宿っているのです。
「なきもの」や「落とし物」といった語が持つ即物的・無機的なニュアンスとは異なり、
「なくしもの」はより曖昧で、ぼんやりとしていて、しかし確実に“心のどこか”に引っかかり続ける存在を表しています。
それは、本来なら見えていたはずのもの、あるいは、自分で見えなくしてしまったものなのかもしれません。
このタイトルには、「もう失われてしまった何か」ではなく、
“今なお、ここにあるはずなのに、見失ってしまっている何か”に対する問いが込められているように思えてなりません。
▶社会の中で“見えなくしているもの”とは何か?

「でっちあげ」という映画に描かれていたもの。
そして「なくしもの」という楽曲が静かに投げかけているもの。
それはきっと、私たち一人ひとりが“見えなくしている”ものの存在です。
たとえばそれは、
- 正義という名の暴走
- 民意という名の集団圧力
- 沈黙の裏にある誰かの痛み
- 都合よく見ないようにしている真実

私たちは時に、見ないことを選びます。
そのほうが楽だから。
傷つかなくて済むから。
見てしまったら、自分の正義が揺らいでしまうから。
見えないふりをして、保たれている社会の均衡があるから。
でも、見えなくしたものは、本当に「なかった」ことになるのでしょうか?

「なくしもの」は、そんな社会の中で、
見ないふりをしてきた私たちの“まなざし”に静かに疑問を投げかけているように思えます。
▶まとめ

今回は、キタニタツヤさんの楽曲「なくしもの」を徹底考察しました。
“なくしてしまった”のではなく、“見えなくしていた”。
それが「なくしもの」というタイトルの、核心だったのかもしれません。
この曲は、悲しみを歌っているだけではありません。
失った痛みをそのままにせず、「それでも前を向けるか?」という問いを投げかけてくる楽曲です。

社会の中で、“声なき声”は簡単にかき消されてしまいます。
けれど、それを本当に「見えなくしたままでいいのか?」と、この歌は私たちに問うているのです。

そして、ほんのかすかにでも
「それでも、生きていてよかったと思える日が来るのではないか」
そう信じたくなる――
「なくしもの」は、そんな希望の原石を私たちの手の中にそっと残してくれる楽曲だと、筆者は感じています。
BRAND-NEW MUSIC DAYSでは
他にもキタニタツヤさんの楽曲を考察しています。
そちらもぜひ、ご覧くださいね。
コメント