現世において、日本の子どもたちは「痛み」に弱いですよね…
痛みというのは別に「すりむいた」や「骨折した」などの痛みではなく、つらいことや苦しいことへの「心の痛み」に弱いということなんです。
それは「過保護」はもちろんのことで「子どもが必要としているものと、親が必要と思っているものとのギャップ」も原因としてあるのではないかと私は思うんです。
よく子どもが泣いている時、親御さんは一所懸命泣き止まそうとされますが、それでもグズったりなどする場合は「ゲーム」や「お菓子」、「お人形」などを買い与えて泣き止ませる姿を見かけたりします。
満たされないことなどへの感情表現として、子どもは泣いたりしますが、満たされていても子どもは悲しければ泣きますよね。大人もそうでしょう。
ここでよく考えてみてください。
子どもは大人とは違って、複雑な感情の表現方法を知りません。
あくまでも「ピュア」であり、感情表現はストレートなものだと考えた方がいいですよね。
大人であれば「妥協」「落し所」といった言葉のもとに「まぁいいか」「しょうがない」として、感情をコントロールすることができる(そうすることでストレスを溜め込んでしまう方もいますが…)
子どもの場合はそうはいきません。
物が満たされていても、何かが満たされていないから子どもは悲しんだり泣いたりするんだと考えた時、子どもが満たされない思いの要因は、本当に「ゲーム」や「お人形」でしょうか?
子どもは、家族や友だち・学校・地域の中で様々な経験・体験をし、嬉しいことだけではなく、つらいことや苦しいこと、幾度もの失敗を繰り返しながら成長していきます。
思春期を迎える頃になると、様々な葛藤の中で、過去の失敗を経験としながら「自分というもの」を創り上げ、大人社会へと巣立っていきますが、その「自分というもの」を創り上げるために一番必要なものとは、あなたは何だと思いますか?
それは、親と子のゆるぎない信頼 だと私は考えます。
成長して行くにつれて、子どもの眼前には多くの別れ道が出てきますが、どれを選択するかは「子どもの自由」であるはずが、そのはるか手前で子どもを誘導してしまう親が特に最近は多いです。
「自分の苦い経験を子どもにはさせたくない」ということなんでしょうし「それが、親心というものだ」と声高に仰る方もいますが、果たして本当にそうでしょうか?
私からすれば、それは
「人として生きる権利を奪っている」ようにしか見えません。
「人権」は大人だけのものではなく、子どもにだってあります。
それがあるからこそ自分が直面する様々な事柄について「僕はこうしたいと思う」「私はこう考える」と、大人に訴えてくるんです。
こういった状況の場合、大人の対応が
になってはいませんか?
先刻記した「自分の苦い経験を子どもにはさせたくない」という思いは「子どものことを考えている」のではなく「大人のメンツを圧し着せている」ことになっているのではないでしょうか。
そこで、私が持論として掲げている
「子育てで大切なこと」ですが、紙に書いてみました。
コチラです。
もちろん、子どもは大人と比べてある意味において力は弱いかもしれませんが、大人よりも遥かに未来を見据える力や可能性はあります。
でも、先んじて生きているがゆえに「この先に待ち受けているものへの不安」が出てしまい、ついつい口や手が出てしまうのでしょう。
子どもたちが生きていく先にある失敗や挫折などを、極めて早い段階から回避して、今でいう「安心・安全に過ごさせてやることが親として、大人としての責務だ」とあなたが考えていて、そう言動に移しているとしたら、それは「責務」ではなく「邪魔」といいます。
失敗したっていいじゃないか
悩んだっていいじゃないか
間違ったっていいじゃないか
親や大人が敷いたレールの上だけで、この世の道理のすべてが分かるはずなんかないですし、親や大人が言っていることがすべて正解である保障など何処にもありません。
だったら、子どもたちの純粋な目で、耳で、手で、足で、世の中を切り開いていくことの方を応援すべきなのではないでしょうか。
今のうちに思いっきり失敗しても、悩んでも、間違っても構わない。
それが「親」であり、「大人」であることの責務だと私は考えます。
子どもたち自身が心身共に成長し、大人社会へ巣立っていくまでの時間は限られています。
失敗を恐れず、好奇心を向上心に変え「克己心」を養い、
成長していく子どもたちの姿を温かく見守り、
子どもが必要としている時は必要なだけ向き合い、
今までの『頑張り』を褒め、抱きしめ、
また次への『頑張り』へ向けて、笑顔で背中を推してあげましょう!