――”正しい歴史認識”と、語り継がれる”記憶”が、平和へのキャスティングボードとなる。
―心に効く、音楽の処方箋―
【メンタルエイド】BRAND-NEW MUSIC DAYS
2025年は、戦後80年という大きな節目を迎えます。
様々なメディアで戦争について語り継がれる中、
音楽の世界でも平和への願いが込められた楽曲が数多く発表されています。
先日、福山雅治さんの『クスノキ』を耳にしたとき、
改めて「終戦の日」の本当の意味を次世代に伝えることの重みを痛感しました。
誰もが一度は学校で「1945年8月15日」が終戦の日だと教わります。
筆者自身も戦後生まれ、子どもたちは「平成」生まれ。
この令和の時代に、遠い過去となった「昭和」の戦争をどう伝えるか、ずっと考えてきました。
今、この瞬間も世界のどこかでミサイルが飛び、建物が破壊され、命の灯が消えています。
戦争の足音が少しずつ、速度を増して近づいて来ているように感じる今、
なぜ私たち大人が「終戦の日」の本当の意味を伝えなければならないのか。
今回のBRAND-NEW MUSIC DAYSは、終戦の日特別企画として、
筆者の父と母、そして当時の息子と娘との対話を通して、
この問いについて皆さんと一緒に深く考えていきたいと思います。
そして、音楽が持つ「言霊」に耳を傾けながら、
そのメッセージが私たちに何を語りかけているのかについても触れていきましょう。
私が父や母に戦争の頃の暮らしなどを子どもたちに語ってもらいたいと考えたきっかけは、
息子が小学4年生の夏休みの出来事でした。
テレビを観ていた子どもたち。バラエティ番組全盛の頃で、
笑い声が心地よく響いていましたが、
しばらくすると息子が「お父さん、これ何?」と私を呼びました。
息子の指差す画面には、原子爆弾投下直後の「きのこ雲」が映っていました。
昭和20年の8月6日、広島に、
8月9日、長崎に原子爆弾が落とされました。
多くの人が一瞬のうちに亡くなり、今もなお、
原子爆弾の後遺症に苦しんでいる人がいるのだと話すと、
息子は
「誰がこんな悪いことをしたの?」と問いかけました。
小学4年生ともなれば、ある程度のことは「知っておくべきこと」として、
小学2年生の娘も交え、私が両親や先生などから教えられたことや、
語り継がれたことをできるだけ分かりやすく話しました。
すると息子はこう言ったのです。
「日本は、何も悪いことをしてないのにアメリカに爆弾を落とされたの?」
私の小学校時代には、授業で「10フィート映画」を観て、
原子爆弾の恐ろしさや被爆直後の様子を学びましたが、
子どもたちは「そんな映画は観たことがない」と言います。
『はだしのゲン』や今年の終戦記念日に放送が決まった『火垂るの墓』までもが、
「子どもに見せると云々」と制限される昨今。
戦争の悲惨さや残虐さを、
単なるオカルトやホラーと同じ扱いにしている大人が増えている現状に、
私はショックを受けました。
太平洋戦争のことは教科書で学びますが、日本が当時周りの国々に何をしたのか、
あるいは国民に対して何をしたのかまで詳しく学んだ記憶はありません。
情報が少ない世代や、情報があっても「見て見ぬふり」をする大人が多い現状では、
正しい歴史認識なしに未来を語ることはできませんよね。
父と母は「戦前生まれ」、私と妻は「戦後生まれ」。
それぞれに生きてきた時代背景はまったく違います。
「平成生まれ」の子どもたちにとっては、「昭和という時代」は未知の世界。
そこで「戦時中」「終戦直後」「戦後」の3つに分けて、
一番身近な視点から昭和を伝えました。
父は奈良県生まれ。
戦時中は空襲に遭わずに済みましたが、
大阪の方向に向かうB29の低空飛行を目撃し、
恐怖のあまり震えが止まらなかったと語ります。
食べ物においては配給制下で苦労し、
「芋のつる」や「かぼちゃ」などで飢えを凌いでいました。
戦闘機の爆音が轟く中で学びながらも、
毎日「竹槍訓練」があったとのこと。
終戦直後、実兄がビルマ(今のミャンマー)のマンダレーで戦死したと知らせを受け、
遺品もなく「戦死を知らせる紙切れ1枚」しか届かなかったといいます。
母も兄弟を戦争で亡くし、
同じような悲しみを抱えながら少女時代を過ごしました。
戦後の混乱期は、
「明日生きること」ではなく「今日を生きること」で精一杯。
鉄くずを集め、わずかな食べ物で暮らす日々が続きました。
以降、高度経済成長期や大阪万博の話を経て、
語りは私にバトンタッチ。
昭和50年代、60年代、昭和最後の日のの話をすると、
子どもたちにも昭和の歴史がつながったようで、
意義ある学びとなったようです。
父や母、筆者たちが伝えた「昭和」と「戦争」はあくまで自分たちに一番近い視点です。
しかし、戦争の全体像を理解するためには、まず身近なものから理解することが不可欠ではないでしょうか。
現世代が確かな情報や知識を持ち、次世代へ伝えることが重要ですが、
終戦から80年経った今でも解明された歴史は少なすぎます。
また、私たちが学校で学ぶのは「太平洋戦争」ですが、
当時の日本は「大東亜戦争」と呼んでいました。
もしこの戦争が「悪いことだらけ」であったなら、
戦後のアジア諸国との関係改善はなぜ可能だったのでしょうか。
学校教育や教科書では、
「大東亜戦争」という呼称の背景や複雑な対日感情について、
深く学ぶ機会はほとんどありません。
「語られない歴史」の存在は、
私たちに「本当に正しい歴史認識とは何か?」を問いかけています。
戦争の悲惨さや命の尊さを歌う楽曲は数多く存在します。
直接的な描写はなくとも、歌詞の随所に時代や国境を越えて人々の心に届く「言霊」が宿っています。
代表的なものをいくつか、
印象的なフレーズとともにご紹介しますね。
長崎の被爆クスノキを題材に、戦争の悲劇と生命の尊さを歌う。
「焼き付いた街の記憶 傷つきながら伸びた枝が あの日の空へ問いかけてる 何を見ていたの」
悠久の命が静かに語る“恒久の平和”を表現。
映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』主題歌。
「好きなんだ 君をまだ好きなまま 飛び発つ僕はバカだね でも征かなきゃ」
戦争が奪った若き命の輝きと無念を歌い、「心から人を愛せる世の中であれ」という願いを込めている。
直接的な戦争描写はないが、生きることそのものの意味を深く問いかけ、平和への祈りを歌う。
「言葉数は足りないあなたでしたが 渡せるようにと繋いできたもの あなたがくれた幸せを 生きています」
映画「ラーゲリより愛をこめて」主題歌。
「まだ消えちゃいないよちっちゃな希望を何とか信じて、信じて欲しい」
戦争の文脈で捉えると、排除の精神への警鐘となる。
平和や愛、多様な文化へのリスペクトが込められ、安息の日々は先人たちからの贈り物であることを示す。
「生まれく叙情詩とは 蒼き星の挿話 夏の旋律とは 愛の言霊」
「何も悪いことをしていないのに、原子爆弾を落とされた」わけではありません。
言い換えれば、「何か悪いことをしたから、原子爆弾を落とされるに至った」のです。
その「悪いこととは何なのか?」
一方で、「悪いことをしていないのに原子爆弾を落とされた」としたら、
「何の目的で落としたのか?」
当時の状況は政府においても核心部分が「蓋をされ」、
私たち大人も「有耶無耶」のままです。
社会に出て知った戦時中の日本の実態は、
往々にして「勇敢に戦った御霊」と美化され、
戦地で亡くなった人たちの本当の思いを、正しくは語られませんでした。
令和の世にあらためて、主要都市への大空襲や広島・長崎への原爆投下を考えると、
筆者はこれを「戦争」ではなく「虐殺」だと捉えます。
敗戦後、日本軍が行った加害行為が「非」とされ、
戦勝国が行った類似行為は「是」とされ続けてきた不均衡。
これこそ、戦後の歴史が「勝者の視点」から描かれてきた証です。
だからこそ私たちは、
「日本は被害者である」という一方的な見方だけでなく、
「日本が行った加害」や「戦争の終結に何が起きたか」を
様々な角度や視点から学ぶ必要があります。
安倍晋三元首相が2015年に発表した「戦後70年談話」にある『戦後レジームからの脱却』という言葉は、
過去の区切りをつけ、未来志向の国づくりを行う意志の表れでした。
過去の悲劇を忘れず、しかし永遠に「被害者意識」に縛られず、
互いが対等な立場で未来を語り合うことこそ、真の和解と平和につながると解いているように感じます。
終戦の日は、単に「用意されたカンペを読み、献花する日」ではありません。
「310万人の言霊を聴き、黙とうの中で想いを確かめ合う日」こそが、本当の意味での終戦の日です。
過去の痛みを伝え、未来への希望を育むこと――
それが私たち大人の使命であり、確かな平和への道標なのです。
今も世界のどこかで戦争が起き、犠牲となる人々がいます。
「平和であることが何より幸せ」という言葉は誰でも言えます。
しかし、平和は当たり前ではない。
私たち一人ひとりの心の中にある「平和への切実な願い」に耳を傾け、
行動に変えていくことこそが、次世代へと続く道だと筆者は感じます。
今回の【メンタルエイド】BRAND-NEW MUSIC DAYSは、
終戦の日特別企画としてお送りしました。
記事内で取り上げた楽曲「想望」「クスノキ」「手紙」「Soranji」「愛の言霊」の歌詞考察もぜひご覧ください。
音楽を通して、私たち自身の記憶や想いと戦争の歴史を重ね合わせ、
未来への学びを深めていただければ幸いです。
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